「踊って歌って大合戦」
放送開始後3年目からカラー化されたが、そのころが最高の視聴率で41%を記録した。
ヒットした要因を、野添さんは「夜9時半からの放送なので、子ども向きに作らず、大人向けにし、配役にも中年の方を入れた。
犯罪もぎりぎりまで迫り、人間の欲望を描いた。
なんといっても、チームワークが良かった」と自己分析しています。
宇津井は200回を迎えたとき「よくここまでやってきたなと思いました。
スタートの時2歳だった息子が、今年は小学校ですからね。
身のまわりを見ていると、皆変わっていくのですから頑張らなくちゃ」と語っていました。
このテレビ映画の脚本を最も多く書いた脚本家の山浦弘靖氏は「サラリーマン形態で事件を解決するユニークさが受けた。
だからスピーディーなアクションのなかにも生活を描いた。
事件の舞台がバラエティーに富んでショーウインドー的になり、前半のシリアスさがなくなったのが反省点だった」と結論づけていました。
「踊って歌って大合戦」
和製英語「ザ・ガードマン」も彼女の命名で、昭和40年4月9日TBSで放送した。
最初ワンクールは視聴率10%そこそこ、鉄道のガードと間違えられ、「国鉄職員の話か」といわれ、宇津井健以外はまだ有名でない俳優ばかりが背広で出演、撮影所内では「無名と無名とが格闘していたのでは敵か味方か分からない」と酷評された。
しかし、放映4か月くらいからジリジリ人気があがり、高倉キャップの宇津井だけでなく、ガードマンの清水(藤巻潤)、荒木(川津祐介)、榊(神山繁)、杉井(倉石功)、小森(中条静夫)、吉田(稲葉義男)などにも人気が出て、東京パトロール社の7人の面々は、国内はもちろん、事件解明のため遠くオランダ、ポルトガル、スペインまで飛び、46年12月24日の最終回までの5年10か月の問、海外で1年3か月間ロケ生活をした。
「踊って歌って大合戦」
細野氏以下スタッフはしだいにやる気をなくし、「生きものである番組の死に際をきれいにすることを考え」て、堀年5易目に最終回を迎えた。
これほど社会的に話題になり、問題になった番組は珍しい。
を通じての人間のかっとうが描ける。
これは案外、幅がある素材なんじゃないか・・・、と思うようになったんです」と、野添さんは「ザ・ガードマン」を発想したころを思い出してくれたそうです。
「踊って歌って大合戦」
要旨はつぎの4点であり、
(1)年少者が出演するにふさわしくない番組に、中学生以下の年少者を参加させることは、すみやかにやめてもらいたい
(2)司会者や審査員の言動をつつしんでもらいたい
(3)卑わいな言動を採点の基準にすることはやめてもらいたい
(4)賞金、賞品を多くして番組に対する関心を高めようとすることは、なるべくやめてもらいたい
でした。
「観客が手をたたく音で天井がぶっとぶのではないかと思ったし、入場者の整理にはパトカーや消防車がきた。
この大衆の迫力、プレッシャー、興奮はいまだに忘れられない。
それだけに、人間を狂気にするのも簡単だと思ったし、ヒトラーの気持ちもわかった。
テレビはこわいものだと思ったし、自分もこわくなった」と番組の人気絶頂期を細野氏は語った。
しかし、番向委の四つの改善案が出され、腰を振ることも難しくなり、2人で楽しく踊ることもできなくなったそうです。
「踊って歌って大合戦」では、その踊り方によって、点数があがったり、さがったりする仕掛けをつくり、その点数を賞金に結び付けた。
その採点には、審査員があたり、浜・庫之助が委員長・若水ヤエ子、トップニフイト、それにゲスト歌手が拍手の量で決めた。
こうした細かい演崇成功して・視聴率は30%前後、.舞台上では出演者が狂喜乱舞した。
この「踊って歌って大合戦」は、昭和40年4月2目に放送開始したが、同年1月にスタートした"放送界の映倫〃ー放送番組向上委員会は「アベック歌合戦」(読売テレビ)「ちびっこのどじまん」(フジテレビ)とともに、第-号の低俗番組としてヤリ玉にあげ、同6易日改善方を申し入れてきました。
「踊って歌って大合戦」
音楽はアコーディオンの名手・横森良造氏が太鼓と三味線でリズムを作ったが、現代風でなくてダメ、ギターを使ってもダメ。
大学新卒の月給2万5千円のころ、数十万円のアンプを買ってきて、アコーディオンの音をそれで拡大してリズムをとった。
公開放送の前に、準備を万全にし、カメラの位置などを厳しく決め、三平にきちんと踊ってもらい、逆に練習していない出場者が放りこまれてあわてて踊る意外性をねらった。
だから、ひっくりかえるほど面白い踊り、涙が出るほどおかしい動作が突如出現した。